(怒りーV)

  個人的にカラヤンは好きではないが、売れに売れた「アダージョ」、あのCDにはアナログとデジタルマスターが両方使われている。聴き比べてみればすぐに感じられる筈です。勿論メロディーだけでいい人は関係ないが、アナログマスターからの曲が更に気持ちよく聴こえる筈です。癒しの音楽というものがあるなら正にそれです。但しアナログマスターからの場合テープのヒスノイズ等をできるだけ減らそうとするので実はかなりの音楽信号(倍音)がすでに無くなっているのですが・・・・・・。カセットテープ等からCD−Rを作る時ノイズリダクションを効かせると細かなニュアンスがだんだん消えてこもった音になります、あれと一緒です。弦の合奏の後の消え入る様なふわっとした空間に残る余韻、そして静寂、個人的にはこういう瞬間にこそ音楽があり、プロのプロたる所以だと思っていますが、それが人口的な音になっている。
 
 「今月のリマスター盤」の記事に「いい音」と「いいサウンド」は別の意味があるんだねーとまるで子供に話しかけるように書いておられる、クラッシクの記事の中で、滑稽である。広帯域で良質な音源があれば再生側で好みのサウンドにすることは容易であり、貴方の考える、或いは使用しているモニター装置で「いいサウンド」にしてくれなくてもよい、有り難迷惑である。好きな音、音量はそれぞれであり、それだからこそ必要なのは広帯域で素直な質感である。実に軽率な発言で怒りを通り越してただあきれてしまう。
 
 余談になりますが、アンプを購入される場合、ウオークマンでもいいですから少し高級な(ヒスノイズの質感の良い)カセットテープを買って(ブランクテープとして使う)販売店で気になっている機器で再生してもらいます、その時テープのヒスノイズが一番澄んだ音として聴こえる機器を買えばとりあえず失敗はありません。きつい音ではありません、あくまでも澄んだ音です。同じようにヒスノイズだけを録音したCD−Rを作っておくとCDプレーヤーのチェックに使えます。今時低域20Hzや30Hzがカバーできていないアンプなど殆ど無いでしょう。問題は中域から高域のサラッとした抜けと質感です。
 
 手軽にという言葉はやはり芸術には似つかわしくないし、音楽は理屈ではない、豊かな感性である。デジタルしか知らない世代がどんどん増えている時代に膨大な宣伝費であらゆるメディアを使って「デジタルだから音が良い」というのは詐欺であり、あまりに我々の聴覚を馬鹿にしている。技術者のプライドもあるだろうが他人のふんどし「アナログマスター」で相撲をとってもよいではないか。現代の演奏家の貴重な瞬間をギャラを払ったからといってどぶに捨てる権利があるとも思えない。
 
 前記「非常識の発想」の方が本を出版された。新聞の紹介のなかで「人間の精神的成長を追及してきました、これからは個人の成長進化を目的とする社会作りを探求していきたい」と述べられていました。これ以上個人攻撃をしたくないが私にはどうしても欺瞞としか思えない。彼は自身の著作や評論ではペンネームを使っておられる。最近「音楽力」という本の評論で、「音楽は単に聴いて心地よいだけでなく、心身深く何らかの働きかけをする。それはやはり生きているエネルギーが込められているからだと作者は説いている。希望に溢れた一冊だ」と書いておられる。理系と文系、ペンネームを使って巧みに泳ぎまわっておられるが、両者を繋ぐことこそ今何にもまして必要なことは世相を見れば充分承知の筈だが?又、信念に基づいて行動を起こしている人の物語の本の紹介で、「私事で恐縮だが、社内の反対意見を承知で、CDの開発に孤独な戦いをしていた自分とオーバーラップする」と書いておられたが、冗談ではない、孤独な戦いというのは、大袈裟に言えば「正義、正論」を守る場合に使うべき言葉ではないのか?
 同じく、2005年、5月30日、日経新聞で、アメリカの大学の所謂、産学連携の行き過ぎについて「大学の本来の使命は、すぐには商売にはならないが、本当に先端的な研究をきちんとやることです。日本の大学があの様になっていくには反対です」と言っておられる。勿論この意見には賛成である。しかしそれならば何故「こんな音の悪いもの」という意見をもっと真摯に受け止め、何故そうなのか、それこそ「きちんと」研究すべきではなかったのか。将来企業に入れば所詮商売が先、競争に勝たなければ、ということなら、学生達には何も言えまい。法人化され、ある面では大学も生き残りを賭け競争というものから逃れることはできない。
 
 某ピアノメーカーの工場で、「職人」と呼ばれる人達がどんどん退職されるなか、残業で若い人達に、もう一歩どころか二歩も三歩も奥深い音に対するテクニックを教えられる様子が放映されていた。しかしデジタル録音で育った若者には「その音」が理解できるとはとても思えなかった。そういう「聴覚障害」の子供を沢山育てているなら格好良いことを公の場では控え、企業人に徹しておられれば良かろう。同じく音楽ホールの方も、例えばそこでのコンサートだけでプレイヤーが生活できる訳でもなし、CDも売れてこそ心おきなく修練に打ち込めるのではないか。
 それ以前にしなければならない事があり、その結果がSACD等なら、古い録音技術から一体何が進歩したのか?
 
 先日、名機と評判の高い某社の\200万円超と、実売\5480円のポータブル、その他数台のCDプレイヤーを音楽好きの8人と聴き比べた。あまりに各雑誌で高評価で、ある評論家の方はアナログを超えた!とまで評価されていた機種であり、そこまで良いプレイヤーなら、感動が味わえるなら、長期ローンを組んでも購入したいと思い、この空間で、何時もの機器に入れての試聴を御願いした。何しろ200万円超!オーディオマニアの間では家人には1/10の値段を言う人も多いが、現在の私にはそれでも高い!とりあえずタバコをやめてローン代金を捻出するか?そんな状態だから試聴には力が入る。しかし幸運?にも多少の音質の違いはあっても¥200万円超の機器が多彩な音色、抑揚感を表現したかと言えばNOであった。密かに胸を撫で下ろした。これまでも高額で評価の高い機器を何台も試聴しているが、結局進歩していなかった。ソフトを換えると、どちらが良いか解からなくなるといった程度の違いで、確かに造りは良いが実売価格400倍の値段は一体何なのか?結局デジタルというものが0と1しか無く、その間を繋いでいるものは実音とは関係ないと思える驚きで一同唖然!そしてガックリ!
その時の一人もトランスポート、DAコンバーターで¥240万円也を使用しているが、その後CDプレーヤーやDAコンバーターの新製品に全く興味を示さなくなった。
 
 ただ実際に音の違いが「大きい」と思われる場合もある。それは機器よっては定格出力がかなり大きい場合があり、これはプリアンプ、あるいはメインアンプ直結の場合にボリュームの位置等による変化であって、同じ音量を得る場合にVRを絞れば、簡単に言えば少し帯域は狭くなるが元気のいい音に、逆に上げる場合は帯域は少し広く、ゆったりした音になるという、水をまくときに、ホースの先をつまむか否かを想像してもらえれば良い。水の成分が変わる訳でもなく、本質的な違いではないように思う。特に能率が90db以下などというSPでは、出力の大きい機器は少し元気の良い音になったりするから、表面的な変化に気をとられて、本質的なものを聴き逃し、暫くするとやっぱり何か足りない・・・・・・?新製品のカタログを眺め、試聴記事を読み、泥沼に陥る。せっかく音楽を聴いて暫しの休息をとろうとするが、音にばかり気をとられて音楽そのものに向かわず、イライラはつのる。
 
 他の機器が悪かったのではないか?と思われる人は「真空管アンプの製作について」と「試聴会の記事」のページをお読み頂きたい。そこそこのレベルにはあると思います。尚¥5480円のポータブルはアナログ出力が400mvと少ないので、真空管式の色付けの少ない無帰還アンプを使用しました。更にこの試聴会には高名な評論家の方が同席されたことも付け加えておきます。
 尚、この時の高価なメーカー・オリジナル・コードの音質について非常に興味深い事有り「真空管アンプの製作について」のページを併読頂きたい。
 
 いずれにしても誰にも備わっている聴覚の能力を馬鹿にしたようなソフトを売ることは詐欺行為に等しい。
この文章は「非常識の発想」の方にも送り、ご意見、お怒り、あるいは技術的な反論等お願いしましたが、ご返事はありませんでした。田舎のチッポケな洋食屋の主人の戯言に世界的な企業の重役の方が答える必要もないかもしれません。私も過去会社員でしたし生身の人間ですから、全て清規などとはとても言えませんが、「非常識の発想」を選択された方が「人間の精神的成長を追及してきました」などという言葉を公の場で発言されるのはいかがなものか。精神的成長が企業人としての利潤の追求の為だとしたら「こんな音の悪いもの」と言われた方はその後リストラされたのではないかと心配になります。それとも「マックス・ヴェーバー」を再読されたのだろうか?「カルヴィニズムの神がその信徒に求めたものは、個々の善き業ではなく、組織まで高められた行為」だ、とでもおっしゃりたいのだろうか。カトリック信徒達の罪、悔い改め、懺悔、赦免、そして新たな罪、それらの往来するまことに人間的な動揺など企業にとっては必要ないかもしれないが、彼の言う「精神的成長」とは、ヴェーバーの言う「世俗内的禁欲」或いは「天職義務」と考えることか?ピューリタニズムが実は近代資本主義の発展に結果的に寄与したというヴェーバーの説は誠にその通りで、ルターの宗教改革が結果的に、絶対君主制を推進することになってしまったことと同様に、忠誠を誓い、黙って服従し、軽薄なアイデア人間だけを育てるつもりか?所謂近代の始まったあの時からすでに500年も過ぎてしまった。問題はいたるところで危険と呼べるレベルまで露呈している。
 
 壊れた私を理解して、などという甘ったれた一部の若者を擁護する気持ちはないし、そんな若者を代弁するかの様な、或いは異常な事件を題材としたり、実は人間誰でも持っているであろう悪の部分に執拗に焦点を当てたような、いい歳をした大人の小説等が溢れていることには呆れる。わざわざ一冊の本にしてもらわなくても巷に溢れているではないか。新聞や良書を読みなさいと言ったところで警察でさえあれだけの裏金を使っていた、などという記事やニュースが溢れていては何の意味があるの?と問われれば返事の仕様もない。このような大人の二枚舌や、社会、企業に疑問を感じ、「人間いろいろ」強くは生きたいが・・・・・・正直でやさしい若者達の気持ちは充分理解できる。 

 「若者を見殺しにする国」赤木智弘著で、救済の道を閉ざされた非正規雇用の若者は、もはや戦争が引き起こす混乱で、この差別構造が崩壊するのに希望を託すしかない、と書いておられる。強者への道徳の強制。
誠に過激な発言ではあるが、そこまで来てしまった、と思わざるを得ない。

 何時の時代も本当に怖いことは、じゃらじゃらと鈴を鳴らしてやって来たりはしない。ひたひたと押し寄せ、私たちが自覚もしないうちに社会の隅々に根を張っていくだろう、と書いておられる人もいた。

 浅はかと笑われるかも知れないが、人間の根本は「感じる」と言う能力にあり、これを良き方向に育んでこそと思う。深く感動する心を、感性を発見させないものを作っておいて一体何が「精神的成長」なのか?何時か現実と向き合って良き?大人になる時、純粋に「感じる」ということは、もしかすると邪魔になるかも知れない。勿論そんな感性が残っていればの話ではあるが、だからと言って若い芽を摘んでしまうのはどうかと思う。大きな幹があり、土の中に何処までも伸びる根があって初めて大小の枝が育つ。痩せ細ったサブカルチャー(小枝)ばかりではカウンターカルチャーは生まれないように思う。サブカルチュアーに耽溺するポストモダンなど、はっきり言って「デフラグ」が必要なハードディスクの様だ。
ただ、すでに全ては断片化されているようにも思われ、リカバリーディスクの出番であるが、時すでに遅し!
 
 欧州の一面、例えば、フランスにある「ディズニーランド」は一時期赤字で、銀行が介入したことがあった。日本では考えられないことだ。会社員だった頃、暫くドイツの事務所を拠点として仕事をする機会があり、そのときの印象からすると、彼らの考え方は多分このようなことではないかと、「どうしてあんな張りぼてのところに自分達の大切な子供達を連れて行かなければならないのか、自分達の国には見せるべき本物が沢山あるではないか」といったような考え方だと思われる。
 
 2,3ヶ月前、某新聞にて、フィンランドの教育現場について、数回に渡る特集があった。日本での講演もあり、その時コーディネートされた方(フィンランド人)が来店され、少しばかりお話をさせてもらった。教師も親も、とにかく落ちこぼれを減らすことが第一であり、中学生ぐらいの年齢で、子供自身に、自分は頭が悪いと思い込ませるのは、はっきり言って親が、教師が悪い!という共通認識に立ち、それに対する色々な試みには感心させられた。一握りのエリートを育てることではなく全体のレベルアップ、それこそが社会に安定をもたらし、誰もが住みやすい国に、という意識の高さには敬服するしかない。しかもその結果として、習熟テストでは世界N01!
 日本では中高一貫の学校を世界的な企業が作る。文部省の後押しもある。「国家の品格」を書かれた藤原氏も賛同し関わっておられるそうだ。しかし全寮制とはいえ年間300万円以上掛かる。掲げる理念等は立派な文言だが、結局進学校が一つ増えただけだ。その前にやるべきことは公立学校のあるべき姿を模索するべきではないのか。フィンランドの考えからすれば、それこそ品格のないことこの上もない。
 設立メンバーの一人である大企業のトップの方が、建築家の安藤氏と共にヨーロッパの街を旅する番組があった。彼の地の企業のトップも出演されていた。しかし彼の言葉、実践に比べて、わが国トップの、企業人としては優秀であろうが、あまりに文化的な面をご存知ないことに少々恥ずかしい、という思いを抱いた。二人の企業のトップの間に、自らの考えでもある街のあるべき姿を聞き出そうとする建築家の安藤氏が居る。この画面、会話から受ける印象は、例え企業のトップとはいえ、戦後アメリカばかり追いかけた日本という国の思想的な欠如をまざまざと現して象徴的ですらあった。

 この方は「金は出すが、口も出す」と言って政治献金を再開させた経済界のドンだ。法人税を下げて、その分献金する。よく考えれば政治を買収するということだ。あくまでも法人税として納めるべきもので、前記した300万円掛かる学校を作り、教育も、ということは悪しき資本主義社会の行き着く先か?
資本と人脈を使って、優秀?な人材を集め、たった一校、進学校を作って、公立学校との格差を広げることに一体何の意味があるのか。因みにヨーロッパでは塾というものも殆どない。
どちらが正しいとは言わない。しかし、会社員だった頃、ヨーロッパで長期間仕事を経験したあの頃でさえ、ゴミの出し方ひとつとっても日本は10年遅れていると感じ、その様な考え方が基盤にあるから、仕事上でも、日々の生活でも随分恥をかいたこともあった。

 価値観の相異などと言って議論もせず、はっきりと意見を述べれば、単にきつい!と思われるし、少しでも反対意見を言おうものなら排除される。この様なことが実は色々な問題に繋がっているのだが、一つの問題からあらぬ方まで会話が発展しなくなった、単に好き嫌いで終わってしまう。批評や批判を好き嫌いと同レベルで話す人も多く、議論にならない。前記フィンランドの方の言葉で、「私たちは家族でも友人でも喧々囂々議論する。議論することは勉強になる」という言葉が印象に残った。
 
 「多様性」や「差異」の強調が、目的の選択でなく、選択それ自体の肯定へとすべり落ちている。自己決定的自由の主張が、実は後見的な権力が下す選択に回収されているに過ぎない。
 
 選ぶ側の責任というが、相手が子供であるという場合、親の責任か?しかし連日ニュースで大人の悪行が流れ、携帯電話やネットに対しては、すでに親の監視は無力ではないのか。使わないようにさせればよいではないか、という問題ではない。大体子供の見たい、知りたいという欲求を、好むと好まざるに関わらず、何がしかで汚れてしまった大人の理想論で説得できると考えること自体滑稽である。
 
 随分怒りに任せて辛辣な言葉を並べてきました。そこまで言わなくても、という部分もありますが個人攻撃をするつもりはありません。批判とか批評、或いは議論をするということが、特に日本の社会では嫌われる土壌があるのは承知しております。しかしあくまでも私が見たり読んだりした、すでに公にされたものを実例として、音楽を深く聴く立場として、普通の聴覚の持ち主なら誰でも疑問を呈したいことを書き連ねたまでです。多くの企業で同じことが言えると思います。ある日の新聞、ある日のあるテレビ局の番組、或いは報道。しかしそれがその場限り、そんな事もあるのかと言った事ではなく実に深い問題があり、もう一度きちんとこういう場で記録として残しておかないと、もうすでに遅きに失しているが、大袈裟に言えば日本的諫言の理念や、単なる心情主義でかたずけられ忘れ去られていく様な問題ではないように思います。実に簡単なことなのです、同じ演奏を一度でも、アナログマスター、、或いはアナログマスターからのCDと、デジタルマスターからのCDを聴き比べてみられましたか?苦渋の選択でしたか?それともデジタルの方が良かったのですか?と問いたいのです。本物が本物として残るなら多少価格が上がったとしても売り上げが落ちるとも思えない。軽薄短小、使い捨て!答える義務があると思います。古い録音でありながら名盤と呼ばれるレコードから受ける、あのえもいわれぬ感動はいったい何なのでしょう?現代の演奏家はそんなに下手なのでしょうか?いずれにしても少なくとも今、クラッシクに於いて、何故何度も聴きたくなるディスクがないのでしょう。「技術或いは知識の進歩は、いかなる理性の時代の到来も予告しない。それは人間に新たな愚考へのヒントを与えるだけだ」というジョン・グレイの言葉は実に的を得ていると思う。
 
 CDの売り上げが落ちていると言う。クラシックで今月聴いてみたいCDが7枚ぐらいある、しかし結局一枚しか買っていない。だがその一枚も結果は無残!何時もの失望を味わったに過ぎない。演奏は「特撰盤」、録音評は「93点」これ以上は殆どない。しかしレコードから味わえるような音楽は聴こえて来ない!JAZZならアドリブを聴く訳だからとりあえずデジタルでも構わない。昨今のJAZZの新譜は相も変わらず同じ様なアドリブの繰り返しを、特にピアノなどは音の強弱だけで、しかも気概のない演奏ばかりだから敢えて新しい人を聴く必要もないが、10枚に1枚ぐらい流石!と思わせるディスクもあり、ちょっとボリュームを上げて聴こうとすると気分の悪い音色が増幅されるディスクが多く、とても全曲聴くことには耐えられない。JAZZ臭いとなどと言って、わざわざピアノの音を少しつぶしたディスクや、全ての楽器を横一直線に並べて迫力を出そうとしたり、一体何を考えているのかさっぱり解からない。好き嫌いあるかも知れないが、「ECM」ぐらいバランスが良ければOKである。このレーベルは単なる残響感ではなく、楽器の音そのものの消え入る瞬間も素晴らしいし、広がりも空気感もある。内容も素晴らしいディスクが多く大人のセンスを感じる。ただ録音エンジニアがJan・Erik以外の場合はイマイチ。しかし、これはあくまでもジャズの場合でクラッシクは違う、更なる音色の多彩さが重要だと思う。其処にこそクラシックが芸術と呼ばれる所以があり、強弱のみでは表現できない曲の深さ、そして感動がある。現状の様なソフトばかりでは、趣味である真空管アンプの製作にも熱が入らず困ったことである。
 
 新しい「レコ芸」が来た。「これまで聴いた事のないようなピアノの音がする」と、ある評論家の方が書いておられる一枚が気になっている。何時までも過去の名演ばかり聴くのも、なんだか昔は良かったねーと言うのも自分には合わない。歳を取っても新しい人、演奏、感性を聴いてみたいと思う。芸術の域を聴き取ることはもはやソフトでは難しい時代になったのだろうか?本質的な問題を棚に上げて、5.1chサラウンドなどと騒いでいるのは幼児化した大人の発想としか思えないのだが。
 
 砂漠で水を求める、しかし、水は幻と分かる、それでも人々は砂を飲む。それが理解できているならまだしも、大人が金儲けの為に与えてきたテレビゲームやセクシーなアニメに、子供の頃からまともな感性を毒され続けた彼らには理解不可能であろう。選択する側の責任を、何も知らない子供たちにまで拡大するのはいかがなものか?
1800〜1900年、イギリスの作家?チェスタートン?という人が「すでに亡くなった人、そしてこれから生まれてくる子供たちにも選挙権を与えよ」と言われたそうだ。勿論今の人にも、という言葉が添えられているが、もし添え書きがなかったらどうだろう?
本物を本物として残しておかなければ選択の余地さえないではないか。

 アニメの宮崎氏が、若い母親が「となりのトトロ」を子供たちによく見せる、と言ったら、氏曰く「ああいうものは一年に一度でいいです、それより子供同士外で遊ばせてください」と。考えてみれば変な話であるが・・・・・・・。

 子供に絵本を読み聴かせるのがなぜ良いと言われているのか?しかもゆっくりと。ご存知のように子供は自分の想像の世界でキャラクターを動かすから、と考えられている。
アニメを全て否定するつもりはないが、生身の人間と違って、表情の薄い顔や手足が勝手に動いているだけだ。それでも動く映像であるが故に常に受身の立場に変わりはない。そういうもので育った子供に、想像力など求める方が無理と思えてならない。
絵本のキャラクターを動かす想像力とは全く意味が違う。 
 
 音楽を聴くという行為にしても、よくライブが最高という人がおられるが、多数のレコードを聴いてきた人はコンサート会場では目を閉じて聴き入るという。視覚が入れば音楽の流れは細切れとなるからだ。オペラの様に視覚と共に楽しむこともそれはそれで魅力の一つであるが、無心に「聴く」という意味とは少し違ように思う。
 
 ノーベル賞の小柴さんが「私の研究などは次の世代の誰かがやる。しかしモーツァルトの音楽は彼にしかできなかった」と受賞の際に述べられていた。受賞者の方々が一堂に会しての雑談?でも、小柴さん、田中さんの良い意味での謙虚さは光っていた。
CDの開発に携わった技術者の方々に、芸術に対するこの様な気持ちがあったらと残念でならない。
いずれにしても、D>A、A>Dの際人工的な補間を必要とし、音色が単色、空気感、音場感の希薄さ、FFでの団子状の音、交換の手間が掛からないように、第九を一枚のCDにという、結果的に「間引き」を前提にした話が本当だったとしたら、これ程「軽薄短小」な話はないだろう。
 
 最後までお読み下さって有り難うございます。
事の進行に対して言葉を発し、言葉として記憶し思考することで歴史=物語を完成することができるのは観客なのであり、サルトルの言った「黙っていることは共犯である」により、異論、反論、多数のご意見をお願いします。
                     
              洋食屋  「時夢彷流・ジムホール」」内 音楽を楽しむ会


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