(怒りーU)
ブーレーズもミュンフンも好きである、リフシッツのピアノのこれからには大いに期待している。しかし彼等の演奏を聴く限り何か足りないのである。本当はもっとすごい演奏ではなかったのか?たった一音、弓の一振りで聴き手の心を捉えてしまう、そういう音、瞬間は無かったのか?常に生音に接して居られる方にはたかだか再生音と思っておられるかも知れないが、私の住んでいる出雲市から東京のコンサートに行けば10万円は掛かる、そうやたらと行ける訳でもない。しかしアナログなら現に感動はあるのだ。
ある女性が家にある、亡くなった父のレコードを聴きたいがプレーヤーが古くてもう使えない、まだ売っているのかと。とりあえずアイワの1万円のを薦めた。後日レコードの方が何かはっきりと楽器の音がすると言う。彼女の小さなコンポでも差は歴然とあったのだ。クラシックを聴くのがずっと好きになったという。所用で東京に行った際、20数枚のレコードを買ってきた。東京には中古レコードが沢山ある、しかも安い!と大喜びだった。レコードの場合リモコンが無い。A面を掛ける、最初はこれは・・・・・・・と思っていても換えるのが面倒だからつい最後まで聴いてしまう。しかしだんだん良くなって、これはなかなか良い!なんてことになってB面も、ということになり、結果的に曲の大きさや名演を知ることになる。人間の感性のレベルアップは無限であると思いたい。デジタルの音はこれにストップをかけている。これでは良きリスナーは育ってこない。まともな音も出ないのに5.1chがどうのこうのと言っているのは滑稽である。20数枚のレコードは感性の豊かな何かを感じられる人の手に渡った、彼女は一度に20数枚のソフトを買ったのである。
同号の「今月のリマスター盤」も併読されたい。聴き比べて見るとアナログマスターの方が「遥かにナチュラルで音楽的」と書いてある。その時点で聴き比べなかったのか?なんという怠慢と驕り。
あるメーカーの重役の方が某テレビ局の番組で、CDを発売する際のミーティングで、年配の方が「こんな音の悪いもの!」と言ったが、若い社員が「小さくてファッショナブル」と言ったので、これはいける!と思ったそうである。番組のタイトルは「非常識の発想」、あくまでもヒット商品をという立場からである。これを無常識と言わず何と言おう。勿論発想そのものはとりあえず企業としては悪くないが、一番肝心な音質に関するフォローが無い。聴き手のアナウンサーも音楽をそんなに真剣に聴かない人なのか「こんな音の悪いもの」という言葉には反応しない
これを例えば時計の世界に移してみよう。
日本のメーカーは、所謂歯車による時計を捨て、デジタルに走った。しかしスイスは逆にデジタルを捨てた。
かくして現在の世界の真の高級時計市場にメイドインジャパンはない。因みにメイドインスイスの世界シェアーは5%、しかし金額では50%。
結局作り手、否、経営者の「欲望の質」が低いのだ。日本の企業の最大の問題ではないのか。
職人を育てず、消費者に迎合するだけだ。小さなデジタル機器で圧縮された音を、最先端の技術、デジタルだから音が良い!などと言い、音楽の奥深さも知らない子供達に、真の感動を体験させない立派な大人?が、実はカメラに向かって、私は作曲家や演奏家の真の凄さを知らないのです、と言っていることには気づかない。
もし私がデジタルでクラシック音楽を聴き始めていたら、きっとこれほどまでに、少なくともクラシック音楽を好きにならなかったのではないかと思う。メロディーだけではないのだ。
一体あの番組の言わんとすることは何だったのだろう。若い社員の発言は無理からぬとしても、この辺りが何時もこの局のドキュメンタリー番組に決定的に欠けている姿勢で、イギリス最大、或いは最高の輸出品と言われる「BBC」のドキュメンタリー等と比べようもない。日本に今だジャーナりズムが根付いていないと言われる所以でもある。
普通のピアニストの鍵盤のストロークが10cmならミケランジェリーのそれは50cmあること、たった一つの音をペダルの踏み具合、指圧を変えて一日中鳴らしていたというその多彩な音色。倍音までコントロールしうる傑出した和声感。しかしデジタル録音になってからそれらを満足に聴いたことがない。大きな音にすれば聴こえるというものでもない。ドビュッシーの前奏曲第ニ巻、上記の点を除けば所謂音楽的にも完璧だと思いますが、残念ながらアナログの第一巻に比べれば、多彩な音色が聴こえない。彼が亡くなって、今後このレベルを超えるピアノのディスクが出ることは望むべきも無いと思えば、誠に残念!
装置のレベルが低い!と言われるかも知れませんが、同じ装置でレコードや、少しレベルは落ちるがアナログマスターからのCD化の第一巻は実に多彩な音色を聴くことができます。ピアニズムの極致あってこそ初めて、ドビッシーやラベルのピアノ曲は演奏が成り立つとも言えます。
同様に「映像」で、最近の良演と思われる?エマールのディスクがあるが、いかにもきれいにオブラートされた音で、聴き進めていくには、強弱と単調な音色が続くばかりで飽きてしまう。彼のテクニックではまだ無理なのか?それともデジタルだからか?ミケランジェリーの場合は、刻々と変化する多彩な音色の音空間に投げ出されて、掴む物も無く、ただ漂わされるのみ、といった感がある。それにしてもなんという演奏だろう!
あのチェリビダッケが「彼は特別なのだ、私は彼の言う通りにする」と言った意味が、私にもほんの少し理解できるような気がする?
しかし後記しますが、NFB(歌舞伎役者の化粧と思ってもらえれば)がたっぷり掛かったアンプでは、この感じを聴き取ることは難しい。特にトランジスターアンプが主流になってからは、素子自体の問題があって、現在売られているアンプは殆どこの部類に入る。
因みに私のメインスピーカーシステムは片チャンネルあたリ、低音46cm、中低音30cm、中音ホーンドライバー、高音リボンツイーター、全てダブル使用の大型システムですが、デジタル音なら息子の小さなコンポでも十分な気がするときがある。広帯域で高能率、高解像度であるが故に、逆に多彩な音色の出ない団子状のオケを実演に近い大きな音量でCD一枚聴くのは耐えられない。
眉毛を剃って幾らきれいに線を描いても所詮塗り絵に過ぎないことを技術者は素直に認めるべきだ。もし現代の演奏家をアナログマスターで聴いたら湯上りの彼女は別人だった!と同じぐらいの驚きが、もしかしたらあるのではないか?(女性のお化粧を否定している訳ではありませんので悪しからず)せめてアナログマスターを使い、コンプレッサーやリミッターを適切に使った薄化粧のCDを発売してほしい。
新聞にかのメーカーの別の役員の方が「日本では音楽がもう少し大切にされてもいいと思う、音楽が文化として栄えていくには・・・・」云々とあった。どうして大切にとか文化という言葉を使われるのか私にはさっぱり解からない。厚顔無恥としか言いようがない。彼の言っていることは結局著作権料についてであり、この場合文化と言う言葉を使われるのは多少抵抗がある。しかもこの方は音楽に深く拘ってこられた方でご自分の退職金全て音楽ホールの建設の為寄付されるという。それはそれで立派なことではあるが、「非常識の発想」から得た利益であれば、せめて還元?することはむしろ当然とも言える。しかし失ったものの大きさは、そんな金額で補えるほど価値の低いものではない。
彼は社長のころ、「商品はお客様の心の琴線に触れるものでなくてはならない」と言っておられた。
はたしてデジタル音はそのようなものだろうか?せめてアナログマスターとの聴き比べをし、「心の琴線に触れる」方を選べばよかったのではないか?CDによって音楽を聴くスタイル?が変わった、などと公の場で上っ面ばかりほざいておられるのは滑稽でしかない。
結局、「聴く」、「聴いた」という共通認識さえ「格差」が大きくなっていくだけである。
同じくトップの方が亡くなられた時、彼は本物の音楽を知っていた、好きな音楽なら自家(社)用機?で出掛けた、と報道されていた。我々には「非常識の発想」から生まれたものを売り、そのお金でコンサートに行く。彼は本当に本物を知っていたのか?もし知っておられたのであれば音楽に対する敬意が無い。これではまるで政治と一緒で「国民はなめられている」としか言いようが無い。どこかの国のジャーナリストの方が「今の日本の政治状況をみていると革命が起きても可笑しくない、日本人はどうして怒らないのか?」と言っておられたが実にその通りで、例えば「天下り」と言う言葉に「天」という文字がもう何十年も、新聞でもニュースでも平気で使われている。揶揄しているならまだしも低俗なジョークにもなっていない。税金を私物化している寄生虫でしかない。。虫は知らずにやっていることであるが、承知でやっているのだから、実は虫けら以下であろう。正式名称は「わたり詐欺」とでも言えば良いのか。官庁を退職してまず退職金をもらう。その後2、3年どこかの理事をやれば新たに退職金が2、3億円。勿論年俸も数千万、2箇所「わたれば」5億円!
文部科学省の事業でさえ、8割の事業は天下り企業が占めているというのであるから、呆れ返ってしまう。行政改革を一番しなければならないのは、実は自分達の足元であろう。
だいたい、やらせのタウンミーティングで国民に説明責任や意見を聞いたとして、強行採決をしてしまう、という暴挙を一体誰が許したのか!しかも論議するのは教育基本法なのだから、怒りを通り越して一体どう言えばいいのだろう。
大学を卒業してそのまま入省させるのではなく、せめて2年ぐらい学校という現場に行かせなくてはまともな教育行政などできる訳がない。民間企業でさえ現場とのずれは大きいが、コスト管理が厳しいから修正は早い。
しかも変な権限意識があるから、現場とのずれは民間の比ではなく、組織はl腐りやすい。任期を短くして馴れ合いを防ごうとするが、そのことが却って無責任な体質を加速させている。
高校の単位不足の問題で、ある県の教育長が、学校に行くのは年に1,2回だと言っていた。そんな教育委員会なら必要ないだろう。
東京23区で持ち家の場合は議員宿舎の入居はできないことになっているが、娘が4人だから狭い、といって格安の宿舎を借りている議員もいる。税金の使い道を議論し、決定する権限は持つとしても、この様な特権を一体誰から与えられているのか?これで「美しい日本」などと言っているのだから、「馬鹿にするな!」と言いたい。
我々は今だ「主権在民」という言葉さえ理解できていないのではないか?すでに日本の新聞やニュース番組は本来あるべきジャーナリズムから大きく逸脱していて根本的な問題点をまるで追求していない。メディアには反体制的な視点が絶対的に必要だと思うが、現実は大本営発表と何等変わりはない。議論が下手、或いは嫌い、政治家は勿論、外務省、年金官僚、警察、防衛庁までがあれだけデタラメな事をしても、責任の追及が甘くはっきりさせることができない民族性が更に拍車をかけている。お上は必ず庶民のことを考えている、という「水戸黄門」の世界から一日も早く惜別すべきだ。
此処まで我慢を重ねてお読みいただいた方も多いと思います。しかし「起きてしまったことをとやかく言っても仕方がない」とか「そこまで言わなくても」といった、「奥ゆかしさ」などという美徳?と、臭いものに蓋をすることは全く意味の違うことではないかと思います。
ハンコを押した責任というものはないのだろうか?責任を伴った高給取りではないのか?
ちょっと政治の話をすると嫌な顔をする人も多い。議論もせず、新聞、本さえろくに読まない人が、義務だの責任などと言って選挙に行く。
ワンフレーズに踊らされて、全ての法案に絶対多数の可決権を与えることが、どんなに愚かなことか。
日本では「ねじれ」と言うが、欧米では当たり前のことだ。
マスコミもいい加減なもので、あるニュース番組で、アメリカの大統領選挙で民主党が勝利すると「チェック・アンド・バランス」が失われると危惧している国民が非常に多い、と解説していた。
しかし日本の状況を語る場合は「ねじれ」!結局議論が苦手という国民性か。
数ある先進国?の中で、少々例外期間はあるにせよ、長い間これだけ一党独裁の政治状況にあるのは日本だけであろう。別に民主党が良いと言っているのではない。しかし常に政権交代させますよ、という我々の意思で与野党伯仲という状態を作らなければ「主権在民」という言葉は絵に描いた餅に過ぎない。
勿論反対意見は抹殺される訳だから民主主義とも言えない。
沖縄返還の密約にしても、米国の当事者、公文書によっても明らかになっている事を、日本政府は否定している。返還の見返りとしての400万ドルはある意味では仕方なかったともいえる。しかしもっと重要な問題も含まれていた。しかし政府は30年経っても否定している。徳川時代、藩主が「由らしむべし、知らしむべからず」、といったところか。最近再発された澤地久枝氏の「密約」という本もある。
先進国と言われながら、情報公開などは未だ徳川時代か?。アスベスト、C型肝炎等の問題もしかりだが、諸外国ですでに問題になっていた事実であり、情報を得ていたにも拘わらずだ。もう立派な計画殺人ではないか。1986年の米の映画に、別にそれが主題ではないが、病院でアスベストによる症状など、もうすでに充分な詳細を患者に説明している場面があった。自己責任などと言って、国民一人を助けられないような国に、どうして愛国心など持つことができよう。
ヒットラーは「国民に難しい話をしても理解しない。力強くワンフレーズを繰り返せばよい」と言った。何処かの国の前首相と同じだ。「デジタルだから音が良い」も同じことだ。ニュースはそれを流すだけ。その裏で、改悪、障害者自立支援法は成立し、自分たちの議員年金は廃止せず(通過した案はごまかしで、実は税金の投入が増える)老人の年金は減らす。将来を考えればやむを得ぬこともあるだろうが、国会議員が国政調査費で高給料亭での飲食など、最後の最後に、やるべきこと?が優先している。
あらぬ方向にいってしまったが、最後に。わが国の首相が靖国の問題に関して「罪を憎んで人を憎まず」と言った。しかも、孔子の言葉として。被害者であり、本家?に対して(実は孔子はこの様なことは言わなかったとされているが)。国民の一人としてまことに恥ずかしい。あくまでも被害者側が言うことであって、加害者が言うべきことではない。ワルシャワ蜂起60周年記念式典での独シュレーダー首相のコメント等に比べればあまりの違いに驚きを禁じえない。「近隣諸国との和解が得られずに、国際的に重要な役割を担い得るのか」と日本の国連安保理常任理事国入りに疑問を呈した、フランクフルター・アルゲマイネ紙の記事は、米側と何か密約もあったろうが、日本にとって寛大と評されたサンフランシスコ講和条約により国際復帰したことも合わせ、当然!としか言い様がない。
今回のメール騒動で「ガセネタ」という言葉も使った。それならば、イラクの大量破壊兵器の件も「ガセネタ」ではなかったのか?という質問を記者がするわけでもない。パウエル元長官は後に「人生最大の汚点」と語り、自己責任と攻撃された3人の日本人を、「日本人の誇り」とも言われた。私も「誇り」だと思う。
比較する事ではないが、片や何万人という死者が出る問題である。
「発見されていないが、無かったとは言えない」などという前首相のふざけた答弁はもってのほかであろう。「アメリカを支持します」と言った昂揚したあの顔!そしてプレスリーの歌。穴があったら入りたい、と思った人は私だけではないだろう。
充分な裏付けのない決定権限などいったい誰から与えられたのか?
タウンミーティング(TM)の「やらせ」に対して、英の主要紙タイムズやガーディアンは、小泉前内閣の官房長官だった安倍氏がTMの実施責任者だったと報じ、「汚れにまみれた喜劇」と皮肉ったのはドイツの公共放送。
そういう人が「美しい国、日本」と言い、教育基本法を改正しなければならないと言うのだから言葉もない。
駐留米軍に対する日本の拠出金は、そういう現状にある25カ国のトータルより多いという。グアムへの移転費負担は8000億円!こういう軍事費。農村の問題や砂漠化、汚染の問題を抱える中国が、実は世界最大の武器輸入国であるという事実。甘いと言われるかもしれないが、どうしてこうまで疑心暗鬼なのか?一ヶ月でも一年でもトップ同士一つの部屋、贅沢なリゾートでもいい、徹底的に話し合ったらどうだろう。ゴルフでもマージャンでも好きなだけ税金を使ってもいいからやったらいい。但し兵士の代わりに決闘をする覚悟でやりなさい。相手を殺しに行きなさい、貴方も死になさい、と言って兵士を送り出す権力を行使するなら、自分も生死をかけたらいい。貴方が居なくても国は動く。それとも軍需産業がなければ国の経済が成り立っていかないのか?もうはっきり言ってバカバカしい。
ユーゴの内戦にしても、民族のアイデンティティーの違いが紛争を導くのではなく、実は政治指導者たちが、権力の維持の為に主導した結果ではなかったか。
「すべての人が苦しまなければならぬとしても、その場合、子どもにいったい何の関係があるんだい、ぜひ教えてもらいたいね。何のために子どもたちまで苦しまなけりゃならないのか。何のために子どもたちが苦しみによって調和を買う必要があるのか、まるきりわからんよ。「カラマーゾフの兄弟」より。
だいたい憲法改正に賛成している人達は、自分が戦争の最前線に行って人を殺す覚悟があるのか。家族を目の前で殺されて泣き叫ぶ人達を見て、これは正義の戦い、などと思えるのだろうか。
毎年8月には兵士だった方、原爆を投下された広島や長崎の方々の悲惨な体験を語られる番組が多数放送される。その方々の誰一人として憲法改正などとは言われない。例えばアメリカのホームレスの四分の一は退役軍人と言われている。世論調査で改正に賛成する人が50パーセントなどという数字は異常と言わざるを得ない。
今年もこともあろうに8月15日の夜に、自衛隊が海外で武力行為をできるように憲法を改正すべきか否かの討論会を某テレビ局で放送されていた。しつこいようだが8月15日にだ。
一体この局の方は何を考えておられるのか?しかも憲法改正に賛成の人がやはり50パーセント近くいる。
もしこの討論会を原爆資料館でむごい写真を見ながらだったら、果たしてこの数字に変化はあっただろうか。
いずれにしても、安全地帯に居る人間はもっと思慮深くなってほしいものだ。
勿論私は小心者だし、利己主義だからきっと逃げ出す。最高の真空管アンプを作りたいし、音楽も聴きたい、本も読みたいから。しかし結果としてこの怒りのページは抹消せざるをえないが。
何処の国民も誰も戦争など望んではいない。中国や韓国とも民間交流は盛んになってきている。極端に言えば巨額の軍事費など必要ない。仮想?敵国を作って求心力を得、服従を植え付けようとしているのか?それともまだまだ国民に知らされていないことが沢山あるのか?
日本人の大多数は、先のクエート侵攻も含めて、日本は戦争に参加していないと思っている。しかし海上給油をやっているということは、間接的ではあっても参加しているといっても過言ではない。その油を使って爆撃機が飛んでいったかも?ではなく行ったのだ。小泉前首相が「ポチ」なら、我々は「ポチのポチ」か。
憲法改正の問題にしても、アメリカに押し付けられたもの、という論議があるが、改正するということが、実は再度押し付けの憲法を持たされる、ということではないのか?
20世紀は戦争の時代だった。結局何も学ばなかった、ということだ。「日本国憲法を世界遺産に」という言葉は単なる理想論で片付けられる問題ではないように思う。
さて、本題に戻ろう。何故そこまで辛辣な例を引き合いに出して言わなければならないのか、と思われるかも知れないが、本物を知っているということは敬意を払うということであり行動が伴わなければ意味が無い。
プラトンは「芸術が精神に及ぼす力はポリスの土台を破壊するかもしれない」と考えたほど絶大なものと認識し、リルケは「芸術作品とは常に、経験された危険、極限にまで、人間がそれ以上続けることができない地点まで導かれた経験の産物です」と言っている。本物を知っていると言われるなら、例え多少の経費が掛かっても両マスターを作り聴き比べてみることぐらいしなければ敬意を払っていないのと同じであるし、実は本物を知っているとは言えない.。一体アナログマスターを使うことに何の問題があるのだろう?現実にデジタル録音ではいかにアナログに近づけることができるか四苦八苦している。サンプリングでこぼれ落ちた倍音や霧のように漂う気配を後から加えようとする技術は言ってみればお化粧と同じである。小さくて手軽、別に悪いことではない、それで充分という場合も使い道もある。しかし文庫本に文字が落ちていたり薄くて読めないということがあるのだろうか?間引きされた文章、もしあったとすれば、それは単なる欠陥商品でしかない。
岩波文庫、最後あたりに「読書子に寄すー岩波文庫発刊に際してー」という、敢て文庫本にする意義が記されている。本に対する敬意と愛情に溢れた一文である。
CDに対しては「実は音楽の大切な部分が抜けていますが、とりあえずメロディーだけは聴けます。ベートーベンの第九のように、長い曲が2枚に分割されれば、手間が掛かるでしょうし、何よりも小さくて、簡単、便利ということを第一に考えました」とでも書くしかなかろう。文化に対する何と言う認識の違い!
我々の祖先と脳の質量は殆ど変わらず、体力的には優れていた?というネアンデルタール人は3万年ぐらい前に絶滅した。共存した時期もあったのに我々の祖先は生き残り現在に至っている、何故か?気道が短かった為言語を操る能力が劣っていたらしい。つまり知恵や知識を教えあい共有しながら未来に繋げる、そういう進化をすることができなかったということだ。
音楽はどうか?言葉だけでは語り尽くせない。楽譜は勿論だが、その時に発せられた芸術の域に達した音を記録したものがなくては広く共有することはできない。しかし次世代に伝えるにはデジタル録音は磨き抜かれた奏者の多彩な音色に対して根本的に問題がある。古い録音から、例え多少バランスが悪くてもノイズが多くても、其処から生き生きとした音色を聴くことが我々はできた。
その証拠に最近古いアナログマスターからSACD化したディスクが多数発売されるようになったが、十分ではなくともデジタルマスターと違ってそれらから多彩な音色が聴こえるのはなぜだろう?ただSACDだから良い音ではなく、第一条件として「アナログマスターだから」ではないのか?現代人の五感は30年前の半分ほどに退化していると言われている。深く感動する心を伝え共有していけないなら、そういう感性は絶滅しかない。
価値観の相違、などという言葉で簡単に語られるものではないのだ。
再生機器についても一言。現代のアンプ、特にトランジスターアンプはNFB「負帰環」が多量に掛かっている。その為に位相補正なるものも必要になってくる。前記した様に歌舞伎役者と同様の厚化粧である。見かけ上の測定値はアップするがリミッターやコンプレッサーを使うのと同じで抑揚感を減らすことになる、更に恥ずかしさで頬が赤らんでも厚化粧の人はわからないのと同じで、音色の多彩さも減らすことになっている。確かに測定値では広帯域であるが、良質の同じ帯域の無帰還アンプに比べて聴感上は狭く感じるし、全帯域で団子状、その為に低域は肥大、中域、高域は音がきれいに抜けず、SPにへばり付いて、さらりと空間に放たれない。マルチマイク録音による弊害もあるが、臨場感や空間が感じられないから、5、1chサラウンドがどうのこうのと騒ぐ。レベルの低いchをいくら増やしても、まともな1chにも及ばない。更にそんな音を厚化粧のアンプで鳴らしてみても、メロディーは聴こえるが「演奏」は聴こえない。一度良質の低帰還、或いは無帰環アンプと比較試聴すれば、それまで自分の聴いてきた音が如何にオブラートされていたか誰でも納得できる。このことを一番よく実感できるのはSP盤をラッパだけの蓄音機で聴かれるとよい、ノイズやレンジの狭さばかり気にるが、抑揚感、音色の多彩さはLPレコードでも遠く及ばない。音楽は実に生き生きと聴こえる。此処に至って初めて失ったものの大きさを知ることとなる。百聞は一聴!
これまでも高価で著名な、雑誌等で評価の高い機器を数多くこの部屋で友人達と試聴してきた。デザインは別として音質で「ほしい!」と思った機器は残念ながら一台も無い。事実友人達の中で、どれか買った人もいない。いや二つだけあった。フルエンシーのDAコンバーターと「古河」のPCOCCのコードだ。しかしアンプ類は全滅。そういうアンプでデジタルとアナログを比較しているのだから、それ自体に根拠がない事も明白な事実ではある。ただ押し出されたような音と、さらっと抜けた音の区別さえ認識することは難しい。
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