昨今のJAZZの新譜について
某新聞の「文学季評」に、作家であり東大教授松、浦寿輝氏の文章があり、これがそのまま昨今のJAZZの新譜に関しても当てはまるように思い、お怒りを覚悟の上で引用させて頂きたいと思います。
「唯一無二の声、響かせよ」
文学が不振だの、売れ行きが思わしくないだの、文学に未来はないだの、長年にわたってもう嫌というほど繰り返されてきたそんな歎き節に、いつまでも拘泥していても益はない。そんな抽象的な一般論は脇に置き、自分が現今の日本の小説のどこに不満を感じているのか、ごく具体的に考えてみる。
すると、まず第一に浮かび上がってくるのは、個性的な文体の魅力で読ませる作品がほとんど見当たらなくなってしまったという点だ。現代的な風俗の上澄みをスマートに掬い取った、小洒落た物語ならけっこう沢山書かれており、出版マーケットでそれなりに消費されている。書店の店頭に山積みになっている、三十分ぐらいで読み終われそうな「なんとかかんとかのラブストーリー」といったたぐいがそれだが、そうしたすかすかの小説にかぎって、むろん文体のかけらもない。
たとえ作者名を知らずに読みはじめても、三行も読めばこれは誰某の文章以外ではありえないとただちにわからせてくれるもの、それが文体だ。たとえば大江健三郎の文体があり、古井由吉の文体があって、その息遣いと声調は万が一にも聞き違えようがない。そうした唯一無二の声をページの上に響かせようという野心を持った作家が、若い世代にどうしてこうも払底してしまったのだろう。
文体とは批判意識の産物だというのがわたしの考えだ。世の中の大勢に媚びるとまでは言わずとも少なくともそれに逆らわず書いているかぎり、文章は「ワープロ作文」の典型のような、出っ張りもなければ窪みもなく、ただおとなしくさらさらと流れてゆくだけの代物になる。抵抗するものを押し返し、戦うべきものと戦って、無理を通して自分の声を響かせようとするとき、そしてそのときのみ、書き手の身体の唯一無二の生理的リズムが文章に憑依し、そのページ面に作家の署名を刻みこむ。わたしが文学の中に聴き取りたいのはまずそれだ。その息遣いと声調さえ響いていれば、お話の筋立てなんぞはどうでもよいではないか。文体の消滅が示しているものは、結局、今日の文学者の批判精神の衰弱ではないか・・・・・・・・・・・・・・。
と、こういう文章ですが、言葉を少し置き換えればまるで現在のJAZZについて書かれた、と言っても可笑しくない。
別に難しい?JAZZが良いといっているのではない。しかし昨今の例えばピアノトリオのどれを聴いても一緒!という、マンネリ化した創造性の全くない演奏、JAZZに於いて、アドリブというのは創造性という意味でもあったのではないか。過去の名演と呼ばれるものには、その時代の空気を反映しながらも、尚且つ来るべきものを模索しようとする、自己表現に於いてももっと渇望というものがあったのではないか。
勿論その対極にあって、極端に少ない音数でありながら、その絶妙なタイミングでバンドをスウィングさせ、聴く者の心身を揺らし続けたベーシーのような本物もいた。20代の会社員でドイツ在住の頃、ハンブルグであった「パブロ」オールスターズでのベーシー楽団の「間」がスウィングしているという本物だけが持つあの感覚を今でも忘れない。ラストステージ、このバンドをバックに次から次と有名なソリスト、ボーカルが立つ。圧巻のジャムセッション!ベーシーは殆どたった一本の指でしかピアノを弾かない。もう最小の音数だが、その絶妙なタイミングはソリストを煽り、ウキウキさせ、それぞれの最高のアドリブへ導く。延々と続くスウィング感・・・・・・・・・・・・・。
しかし現状をみれば、例えば、頭でっかちの全くスウィングしないウィントンのカーネギーホールバンド。アレンジについて行くだけの若い奏者にはスウィングすることなど望むべくもない。
それにしても「ウイントン」は不思議な天才トランペッターだと思う。自分ではスウィングしてるつもりだろうが、私には全くその様には聴こえないし、上手いとは思うがフレーズに新味がない。この人のJAZZの歴史にはバップ以降は無いかの様だ。初期の「スタンダード」のアルバムなど、「はい!ここから倍テンポ」などとやられて、完全にしらけてしまったことを思い出す。音楽空間の拡大も無く、かと言ってチェットのような語りも無い。
或る瞬間に感情の高揚と共に吹いたフレーズから更なるフレーズへ、この瞬間からやっとJAZZになる。よくオリジナル曲を嫌う人がいるがメロディーなど関係ない。松浦氏が言われた「話の筋立てなどどうでもよいではないか」と同じことである。そしてラストの収まり。勿論収まらない場合もあるが、言ってみればアドリブによる起承転結。
私は理論的なことはよく解からないが、長年聴いていれば、あらかじめ用意され予想されるようなフレーズをやられてもそれをアドリブだとは思わない。昔この地でデイブ・リーブマンの「QUEST」のライブを主催をした時に、彼はこの「アドリブの中での起承転結」という言葉を使った。但し英語力は無いから彼の真意は定かではない。しかし私はそれこそがアドリブをするということだど確信したことを思い出す。
この時の彼の言葉でもう一つ。
エルビンがバックで叩いていると、自分が何小節目を吹いているのか解からなくなる時があると。大きな音楽のうねりとでも言うべきか。アドリブの更なる先へ突き進んだコルトレーンの影響か?
それからみれば昨今のJAZZミュージシャンのなんと音楽空間の狭いこと!こじんまりと小手先ばかりで広がりがない。
現在の私にとって、というより聴き始めた時から、聴くという行為は刺激を受けるということであり、決してグラス片手に酔いのまわった鈍い感性で身体を揺らすことではなかった。先の短いこの歳だからこそ、尚更停滞した感性など聴きたくもないというのが偽らざる気持ちだ。ファンからのリクエストによる選曲etc・・・・まともなプロデューサーの不在、まるでJ・ポップのレベルであり、ただただあきれてしまう。コルトレーンの「バラード」にさえ妖しい狂気があった。「破壊せよ!とアイラーが言った」という言葉が懐かしい。これは!と思えるディスクが一年に一枚あるかないかの時代になってしまった。
バルザックの短編「知られざる傑作」のような演奏は無いのか・・・・・・・・・・・・・。
アルペジオの練習のようなフレーズを、いかにもノッテます!という風に吹けばJAZZなのか・・・・・・・・・・・。
吉田秀和氏曰く、「やれやれ、またか・・・」である。
最近の小説についても・・・・・。
松浦氏の言われる文体というものに属するものだと思うが、例えば絵本も含めて40歳の人が書いたものであれば、40歳の人が読んでもなるほどと思える感覚。或いは、40歳の人でも60歳の書き手でも、子供の心もあれば少年の心もあり老人の心もあると思うのだが、それらが重層的に織り込まれていない。それなりの人物が登場して言葉を発しているが、作者自身の想いが軽いから行間から浮かび上がるものも希薄で、一度読めば終わりという感が強い。勿論現状を打破しようとするエネルギーも希薄。
シンプルなストーリーに肉付けができないのは、やはり作者自身に何かが足りないのだ。
このような理由でフィクションであれノンフィクションであれ、小説というものをあまり読まなくなったが、若い作家にも一人ぐらいは、という思いと、ショパンということもあって読んだ、全体としては物足りなかったけれど、平野啓一郎氏の「葬送」第一巻の終わりあたり。画家が自分の書いた天井画を眺めながらの感慨。バルザックの「知られざる傑作」と同じように、生みの、或いは生んだが為の苦しみ、第二巻のピアノの演奏をリアルタイムで活写する場面。ラストの死に至る苦悩など、若い作家でありながら、こんな年寄りの心にも残る文章には敬服するしかない。思い出しては又その部分だけでも読み返したくなるこの様な文章さえ非常に少なくなってきた。JAZZの新譜と同様、一回どころか一曲か二曲でもういい!好きな曲がちょっと違うフレーズで聴けた、音が良かったから、では何とも情けない。
昔、小林秀雄氏が、出版記念の席で、私の本は高い、この本は¥4000。しかし2回読めれば¥2000。これなら安い!と言われたそうだ。
音楽も同様、とは言わないが、少なくともクラシックなら、演奏技術だけでも何度も聴くに値する。アナログ録音なら尚更だ。
例えその時、充分理解出来なくとも、本も音楽も脳に「負荷」の掛かるものに出会いたいと思う。
さらさらと読める本、ボーカルを除けば、フレーズの先まで予測できるようなJAZZにはもはや興味はない。これまでの経験や知識、感性ですぐ理解できたり共感できるものに対価を払うことも時間を無駄にすることもないだろう。敢えて言えば、乾いた砂。さらさらして質感は良いが、妖しく潜み、うごめき、時にゾクッとする瞬間がない。クラシックの奏者の様に、一音でノックアウトさせられる訳でもないから、余程主張するものがなくては聴き手を引き付けられない。少々情緒的なメロディー、フレーズが鳴ったところでそれがどうしたというのだ。
松浦氏の言われるように、批判精神がないのか、怒りはないのか?時代を切り拓く気概は?
昨今のJAZZは、誤解を恐れずに言えば、クラシックの「モーツァルト節」。私には殆どのモーツァルトの曲は「トルコ行進曲」に聴こえる。
モーツァルトがつまらないと言っているのではない。時代背景もあるが、彼の曲は10対1ぐらいの割合で短調の曲は非常に少ない。短調は暗い、などという短絡的な捕らえ方もあるが、私は囲碁や将棋のように、迷い、熟慮した一手を打ちながらの起承転結と感じる。長調で、更に、あの所謂モーツァルト節が延々と続けば、もはや苦痛でしかない。対峙して聴きたくなる程の演奏の解釈の違いなどあまり感じられない。逆に言えばそれぐらい完成された曲かも知れないが。
感性を広げ、深くし、「心地よい疲労」、というより、日常茶飯事に埋没した感性に、ガツンと一発食らわせてくれる「劇薬の癒し」を期待したい。私には、それこそが癒しであり、活力も沸くというものだ。
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2005年・1月27日